慈悲の正体・後編
前編は【こちら】。
- 仏道への疑問
- 悟りへの疑問
- 慈悲への疑問
- 維摩さまへの疑問
という四つの疑問への答えを求めて購入した電子書籍『維摩経』。
ところが、読み進めていく内に、僕は知ったのです。
「維摩はん……慈悲のせいで病んだりなんか、してへんやんけ……」と。
少なくとも、苦しんでいる素振りは全く在りませんでした。
↑ おっさーーーーーーーん! うそつけぇぇぇぇぇぇぇぇ!! *1
……となると、最初に挙げた僕の疑問の四つ目は、維摩さま自身はやはり慈悲と悟りを両立していた偉大なお方ということで、解消。
それにより、慈悲が弊害となっているケースは存在しなくなったので、三つ目の疑問の解消は困難に。
二つ目の疑問に関しては、維摩さまは、慈悲の実践と共に、悟りの獲得をどこまでも勧め通すスタンス。
一つ目の仏道への疑問なんて、問題外といった感じ。
僕は、前提が崩されたお陰でパニックでも起こしたのか、途中から、内容が今一つ頭に入ってこなくなってしまったのでした。
それどころか、何だかお茶を濁されてばかりいるような気がして、段々と腹が立ってきたんですよね(苦笑*2)。
例えば、次の引用文、どのようにお感じでしょうか?
「自らの経験した病い*3に基づき推量して、相手の病いに寄り添うのです。自分の苦悩を自覚して、相手の苦悩とシンクロさせていく。そういう気持ちで苦悩している人をお見舞いすれば、お見舞いするほうもされるほうも、心身に喜びが満ちあふれるはずです」
いや、もちろん、良い文章ですよ? 奇麗な文章なんです。
でも……「経典に書いてあるアドバイスがこれなのか」って、ちょっとガッカリしちゃいません?
これって、多くの人が、既に、「人として当然の姿勢」と見なしていることだと思うんですよね。
僕が関心を持っていたのは、むしろ、「人として当然の姿勢」を自分が取れなかった時や、相手に取ってもらえなかった時に生じる苦悩──つまり、「慈悲」などの善行を意識するからこそ生じる苦悩──から、どうしたら自由になれるのか、ということだったので……。
僕は、維摩さまが実際は病苦に見舞われていなかった件も含め、この本には肩透かしばかりを食らわされているような気分になってしまったのでした。
内心、この本に対して「★★☆☆☆」という評価を付け掛けていた僕ですが、ふと、「『慈悲』って、多分、『悲』を『慈しむこと』という動名詞なんだろうなぁ……」と思案できたのが幸いでした。
単なる「受け身の読書」から「勉強モード」へ切り替えられたお陰で、この本の見え方が変わってきました。
前回、僕が「他者への哀れみ」と表現した「慈悲」ですが、本書ではそもそも以下のように紹介されております。
慈悲の基本は、「他者の痛みを我が痛みとする」「他者の喜びを我が喜びとする」ところにあります。
この一文だけだと、まだ、「慈悲」の意味は腑に落ちませんでした。
慈悲の「慈」のサンスクリット語の原語はマイトリーで、「親愛な慈しみの心、やすらぎを与える心」を意味します。「悲」の原語はカルナーで、「(痛みに)うめく」というのが原義です。また、サンスクリット語のアヌカンパーという言葉も日本語で「慈悲」と訳されますが、アヌは「~にしたがって」、カンパ―には「震える」という意味があります。
けれど、こちらの解説も付記してもらえて、本当に良かったです。この文章に出会えただけで、この本を買った価値が有りました。
「カルナー」に「マイトリー」するという意味での「慈悲」は、「うめき」に「やすらぎを与える心」で居るということ。「うめき」を生・老・病・死といった「苦」のことだと考えれば、それに対して「やすらぎを与えられる心」とは、「真理を会得した状態」な訳で……それって、悟りの境地ですやん?
「カンパー」に「アヌ」するという意味での「慈悲」は、「震え」に「したがう」ということ。「震え」も「苦」の別表現だと考えれば、それに「したがう」ということは、「煩悩」を起こさずに、ただ「今この瞬間に生きる」ということな訳で……それって、仏道の実践そのものですやん!?
何と。
つまり、慈悲は、「アヌ・カンパー」という意味では、悟りへと至るプロセスであり、仏道における修行のことであって、「マイトリー・カルナー」という意味では、悟りが表現された姿であり、仏道におけるゴールのことであったか……と、まぁ、僕はそう解釈しました。
そりゃ、慈悲が悟りを害することは無い訳ですね。
更に。
慈悲という言葉は、原義に、「自他の区別」を含んでいない点も注目に値するかと思いました。
いわゆる「悟り」は、「自他の区別」などを超越した境地であると言われています。その上で、先程の僕が腑に落ちなかったという本文を、もう一度、引用します。
慈悲の基本は、「他者の痛みを我が痛みとする」「他者の喜びを我が喜びとする」ところにあります。
ここへ、悟りにとって「自他の区別」は無価値なものだという情報を加味すると……「慈悲」とは、「痛み」や「喜び」を媒介に、「他者」と「我」との境界線を揺さぶろうとする行為だと思えます。
「震えにしたがう」という意味での慈悲は、さながら人間関係の中でする滝行のようなものであり、「苦しみにたたずみながら真理の到来を待つこと」だとも言えそうです。ならば、「苦」からの逃避が「煩悩」であり、慈悲の対義語なのかも知れません。
『維摩経』は、「真理を会得したければ、まずは相手の分まで苦しみ(喜び)抜きなさい」と、そのように発破を掛けてくれている経典なのかもと、ようやくその有り難さを実感した次第です。
深読みが楽しめる文章は他にも在るかと思いますので、ご興味を持たれた方は、よろしければご一読ください。
最後に、僕が今回『維摩経』から得たインスピレーションで、マンダラの真似事などを。
「赤丸」という人間が「赤く四角い苦悩」を抱えていることを、「青丸」という人間が知ったとします。
その後、「『赤丸さん』が『赤く四角い苦悩』を抱えていること」を、「青丸さん」が「緑丸さん」に伝えたとします。
「青丸さん」は、「苦悩」について、「緑丸さん」に語ったのです。
この時、苦悩していたのは、いったい誰なんでしょう?
「青丸さん」が「緑丸さん」に、「苦悩」について語った時、「青丸さん」の内側に、自分と「赤丸さん」との境界線は在ったんでしょうか?
「赤丸さん」は、最後まで孤独だったんでしょうか?
話は変わり……
「青丸さん」と「赤丸さん」とが争い合い、「紫の四角い苦悩」がまき散らされたとします。
「紫の四角い苦悩」は、「青丸さん」の「青く四角い苦悩」と、「赤丸さん」の「赤く四角い苦悩」との子供のようなものから始まったかも知れません。
「青丸さん」も「赤丸さん」も、同じように「四角い苦悩」を抱え、同じように余白が無かったかも知れません。
争いは、同じように苦しんでいる者同士の間だからこそ起こったのかも知れません。
話はまた変わり……
「赤丸さん」が、「青丸さん」に、自分が抱えている「赤と青の二色が混ざり合って出来た苦悩」を伝えようとしても……
「青丸さん」は、「赤丸さん」とは違う感想を持つかも知れません。
「青丸さん」が「赤丸さんの苦悩」を一所懸命に見て、一所懸命に考えたからこそ、意見がハッキリ分かれるかも知れません。
昔、足首を両方とも、痛み無しでは接地できなくなってしまい、寝るのも食べるのも、生きることの多くが嫌になってしまった時期が在りました。
その時、病院でお医者さんに「これぐらいのことで学校を休んどったらあかんで」と言われたことは、僕にとって、長らく「苦しみを分かってもらえなかった経験」でした。
そういった思い出を、今後、「少なくとも苦しんでいることは分かってもらえた経験」に変えていこうと思っています。
幸せそうにしている人間に、あのような言葉をわざわざ発するお医者さんは居ないだろうと、今となっては感じるからです。
お医者さんの対応は自分を喜ばせてくれるようなものではありませんでしたが、自分の状態が相手の反応を左右したという点で、僕は世界で孤立していたのではなかったと知りました。
慈悲の正体・前編
上の記事が非常に興味深く、続きがとても気になったので、電子書籍を買いました。
それは、記事の内容が、僕にとっては魅力的な「矛盾」を抱えていたからです。
「悟り」という仏教的に理想的な状態へ到達したはずの人(維摩)が、「慈悲」というこれまた仏教的に理想的な行為のせいで、皮肉にも病気となる……僕はそう解釈したのですが、これ、この状態から自由になれるヒントが本文中に示してあるのだとしたら、思わず興味をそそられませんか?
日頃、病苦を抱えている方々と接する機会の多い僕にとって、まさに知りたかったことが載っているかも知れない……そう期待しました。
そもそも、「悟りを得た人は病気にならない」と言われたりしますね。
その心は、
上の本などを通じて得た僕の理解の範囲内では、「悟りを得た人は『今この瞬間』に生き続ける。だから、健康であった頃の自分と今の自分とを比較して、自らを病人だと実感することは無い」といったことかと思います。
よって、「病気にならない」というのは、正確には、「悟りを得た人でも病気にはなり得るが、病気に苦しまされることは無い」という意味だろうと思うのです。
とは言え、客観的には病気を避けられないにせよ、主観的には病苦を避けられるのであれば、悟りという状態は非常に価値の有るものだと思います。
ただ、一方で、以前から下記のような疑問も持っていたのです。
この世で起こる何もかもを受け止めきるのが悟りだとして、それは、全ての人が保持すべき状態なのだろうか、と。
自分の子が、生まれながらに病気だったとしましょう。
そして、その病気は我が子に大変な苦しみをもたらしますが、幸い、遠い外国では治療法が確立されつつあり、海外へ行けば治る可能性の有る病気だともします。
こういう時、悟りを得た人ならばどう振る舞うのかが、僕の疑問点でした。
宗教的な修行にばかり取り組んできて、医学には疎いという人でも、皆、悟りの力によって、外国の治療法の情報にまでたどり着くのでしょうか?
それとも、「我が子の人生は『今この瞬間』にして既に完全」だと捕らえ、子の病を心穏やかに受け止めて見守り続けるのでしょうか?
「どうして我が子だけが!?」と取り乱して大騒ぎをしたからこそ治療法を紹介してもらえた、平静を保っていたら今ごろ治療法には出会えていなかった、などということは起こらないのでしょうか?
大騒ぎをした人のお陰でその病気が有名になり、他の患者さんにも治療法が知れ渡るといった望ましい未来が、悟りによって妨げられることは無いんでしょうかね?
悟りの奨励が人類に不利益をもたらすことは無いんでしょうか?
また、慈悲に対しても、本当に理想とすべき行為なのだろうか、という疑問が湧いてきました。
我が子が苦しむ姿を見て、出来ることなら自分が代わってやりたいと考えたご両親は多いことでしょう。
悟りを開いた人は病苦に耐えられる精神構造を備えている訳ですから、なおのこと「どうして自分がこの病気に掛かってやれなかったのか」という考えが頭をよぎってもおかしくはないように思えます。
ただし、それは、悟りを崩してしまった姿ではあるでしょう。
「相手と代わりたい」と考えることは、「今この瞬間」に対する拒絶でもあり、「欲」や「怒り」に分類される煩悩でもあるだろうからです。
上記は、もはや、純粋な「慈悲」とは呼べない心境なのかも知れません。
けれど、そういった心境に至ってしまうことや、悟りから離れてしまうことに、慈悲こそがその端緒とならないのかということが、僕の気になるところです。
慈悲を「他者への哀れみ」とするならば、それを起こした瞬間、自分自身の「今」がおろそかになって、迷い、苦しんでいくことにはならないのでしょうか?
まとめますと、僕がこの『維摩経』を通して知りたかったことは、以下の四種類。
- 仏道への疑問 : 「慈悲」という限定された行為と、「悟り」という解放された状態の両方を保持しようとすると、葛藤によって苦しむのは当然ではないか? その苦しみを避ける方法など存在するのか? 仏道は、その苦しみを強制するものなのか?
- 悟りへの疑問 : 本当にいつだって理想的なものなのか?
- 慈悲への疑問 : 本当にいつだって理想的なものなのか? 煩悩との違いはどこに在るのか?
- 維摩さまへの疑問 : 慈悲で病を起こした者が、本当に仏道を極めていたと言えるのか?
そういう訳で、ある日曜日、僕は大変高揚した気分で電子書籍を読み進めていったのですが……最後のページは、やってきてしまいました。何かを得られたという感覚が、全く得られないままに!
僕は、先入観に邪魔されて、重要な文章の意味を全く読み解けていなかったのでした。
脈診結果が一致しない原因
極みを目指す覚悟が医療者を楽にする
有病不治,常得中医.
これは、『漢書』の「芸文志」の「方技略」などにおいて紹介されていることわざである。
これを僕なりに意訳すると、「病気になっても医者に掛からず、成り行きにのみ任せておくのは、いつの時代でも中級の医者に掛かるのと同じ価値が有る」となる。
ここではまず、患者にとって価値の有る医療者がいかに少ないか、しかも、それが歴史的には珍しくない状態であることが述べられているように思う。自然治癒力以上の働きが出来る医療者は、いつの世も半分に満たないと言っているのである。
また、低級な医療者による不適切な対処が、病人にとってかえって害悪となり続けている現状を述べてもいるだろう。素朴な対処法しか無かったはずの前漢の時代でさえそう言っているのが実に面白い。
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