神主宣言
僕は、もしかしたら、悟りを得たのかも知れない。
少なくとも、それが、過去最大の神秘体験であったことは間違いない。
神を見るために、過酷な修行は、やはり必要なかった。
それどころか、まさか、瞑想すら無用だったとは。
むしろ、目をしっかりと見開き、横を向くだけで良かった。
神は、何と、我が家に居た。
……いや、わりと、本気で。
人前で何かを表現する時、緊張を軽減する方法として、「人間を野菜と思え」といったアドバイスを聞く。
しかし、僕は、この方法は適切でないように思う。
人間は反応をするし、質問もする。野菜はしない。
「うわぁ、野菜がしゃべった!?」などとパニックを起こす可能性の有る思い込みなら、最初からしない方がマシではなかろうか。
それに、相手の反応を無視することで得られた自分独りの快適さに、どれ程の価値が有るだろう?
自分の用意してきた内容を一方的に表現するだけで評価してもらえる世界など、そうそう存在しないと僕は思う。
だからこそ、皆、相手の反応を積極的かつ柔軟に取り入れながら自分の表現を調整したいと願っており、そのための手段として緊張への対処法を求めているのではないだろうか。
「野菜作戦」は、仕組みとしては、相手を「取るに足りないもの」と見下すことで、相手との心理的な距離を増し、影響を受けにくくしているのだと思う。
これを、相手を「計り知れないもの」と仰ぐことで、相手との距離を増すというのはどうだろう。
他者を神格化してしまうのだ。
ただし、ここで言う「神」とは「八百万の神」のことなので、「全知全能ではないし、善神ばかりでもないが、尋常ではない能力を持っているために畏怖すべき存在」といった意味での神である。
では、他者がどの点において「尋常ではない」のかと言うと、僕の視点から表現すれば、「稻垣順也の立場や事情を超越して存在できる」という点で、神なのだと言える。
要は、僕に対し、自由自在と言うか、好き勝手と言うか、無責任かつ唐突に、振る舞える能力を持っているということだ。
これは、「稻垣順也の世界」からしてみれば、理不尽な権力として実感されるだろう。
僕が、僕に与えられた条件の中で限界まで頑張ったとしても、他者は「稻垣順也の事情」に縛られることなく僕を評価できるのだから。降雨や落雷のように、お構いなく。*1
こう考えると、自分の主観的な世界にとっては、他者と自分とは同等な存在にはなり得ないことが分かる。
他者は、自分を脅かし得る存在。よって、緊張を起こして当然の相手だ。
前に「相手を神格化して距離を増す」と記したものの、本当は、「距離を正す」と書くのが適切だと思う。
「同等」や「対等」といった言葉は聞こえこそ良いが、そうやって相手に近付き過ぎたことで、関係を窮屈にしている場合も在るのではないだろうか。
他者に緊張したり、苦しめられたりすることを、まずは当然のこととして受け止めよう。
そもそも、それらは、同等なはずの相手に劣っていることで生じる「恥ずべき体験」ではない。
こちらの立場から自由で居れる能力を持った相手に、ただ、圧倒されるべくして圧倒されているだけの話だ。*2
けれど、そんな尋常ではない力にさらされ続けたとしても、自分らしく快適に生きていける方法は存在する。
一つは、自分の立場の自由度を高めていく悟りの道。
もう一つは、相手の力と正しく向き合う祈りの道。
他者との関わりにおいて、萎縮からも増長からも解き放たれるために、神前で祈りを捧げるかのように生きよう。
祈りは無力な行為だと、僕らは思い込みがちだ。
水の神様に祈ったところで、雨の降らない日は来るではないか、と。
一方で、現状、僕らは水の神様を認め、敬い続けている。*3
そして、懲りもせず、自分勝手な祈りを続ける。
神様がそうして欲しがっているかを確かめることもなく。また、願いのかないやすい祈り方を試験することもなく。
それらは、愚かさや醜さの証明ではないと、僕は思う。
そこには、人知に基づいた小細工を放棄させてしまうだけの、神様への畏怖が在る。
祈りとは、恐ろしい神様に自分自身を明け渡し、お任せする行為なのだ。
ただし、明け渡すのは、自分自身の全てではない。
自分の未来だけ。
自分の過去や現在は神々のおぼし召しとして大切に扱いながらも、未来は神々のおぼし召しとして人知の外に置く。
「人事を尽くして天命を待つ」というやつだ。
祈りは、むしろ、自分勝手なぐらいがちょうど良いかも知れない。
自分の立場を大切に踏み締めることで、反動を得て、通天を試みる。同時に、その後に起こる全てを天啓と見なし、受け止めることを覚悟する。
祈りには、「自己の主張」と「他者の尊重」とが、見事に共存している。
「神代」という言葉を、本居宣長は「現在の神様の多くがまだ人間として生きていた時代」と解説しているそうだ。
なら、未来の神様である他人にも、手っ取り早く、祈るように関わっていっても良いだろう。
そうすれば、迷いからも不満からも解放されて、人生を満喫できそうな気がしている。
これから僕は、我以外皆神、我のみただの人、といった感覚で生きてみようかと思う。
それにしても、大阪で人通り……おっと、神通り……の中を歩いていて驚かされるのは、有名ではない神々の中にも、恐ろしいほどお美しいお方は多数いらっしゃるということだ。
しかし、それほどのお美しさをもってしても、我が妻の特別性は揺るがない。
我が妻は、僕にとっての主神(祭神)に相当するものであり、お祭りするだけの由緒が芽生えた唯一の存在だ。
僕はその「神主」として、名称の割りには神様に対して何の支配権も持たない名誉ある立場から、自分なりの最善を奉じ続け、主神が境内でお過ごし遊ばすお姿を愛し抜いてみよう。