とある針灸師の実情

針灸師・稻垣順也が、終わりのない自己紹介を続けていくブログです。

慈悲の正体・前編

 

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上の記事が非常に興味深く、続きがとても気になったので、電子書籍を買いました。

それは、記事の内容が、僕にとっては魅力的な「矛盾」を抱えていたからです。

「悟り」という仏教的に理想的な状態へ到達したはずの人(維摩)が、「慈悲」というこれまた仏教的に理想的な行為のせいで、皮肉にも病気となる……僕はそう解釈したのですが、これ、この状態から自由になれるヒントが本文中に示してあるのだとしたら、思わず興味をそそられませんか?

日頃、病苦を抱えている方々と接する機会の多い僕にとって、まさに知りたかったことが載っているかも知れない……そう期待しました。

 

そもそも、「悟りを得た人は病気にならない」と言われたりしますね。

その心は、

上の本などを通じて得た僕の理解の範囲内では、「悟りを得た人は『今この瞬間』に生き続ける。だから、健康であった頃の自分と今の自分とを比較して、自らを病人だと実感することは無い」といったことかと思います。

よって、「病気にならない」というのは、正確には、「悟りを得た人でも病気にはなり得るが、病気に苦しまされることは無い」という意味だろうと思うのです。

とは言え、客観的には病気を避けられないにせよ、主観的には病苦を避けられるのであれば、悟りという状態は非常に価値の有るものだと思います。

ただ、一方で、以前から下記のような疑問も持っていたのです。

この世で起こる何もかもを受け止めきるのが悟りだとして、それは、全ての人が保持すべき状態なのだろうか、と。

 

自分の子が、生まれながらに病気だったとしましょう。

そして、その病気は我が子に大変な苦しみをもたらしますが、幸い、遠い外国では治療法が確立されつつあり、海外へ行けば治る可能性の有る病気だともします。

こういう時、悟りを得た人ならばどう振る舞うのかが、僕の疑問点でした。

宗教的な修行にばかり取り組んできて、医学には疎いという人でも、皆、悟りの力によって、外国の治療法の情報にまでたどり着くのでしょうか?

それとも、「我が子の人生は『今この瞬間』にして既に完全」だと捕らえ、子の病を心穏やかに受け止めて見守り続けるのでしょうか?

「どうして我が子だけが!?」と取り乱して大騒ぎをしたからこそ治療法を紹介してもらえた、平静を保っていたら今ごろ治療法には出会えていなかった、などということは起こらないのでしょうか?

大騒ぎをした人のお陰でその病気が有名になり、他の患者さんにも治療法が知れ渡るといった望ましい未来が、悟りによって妨げられることは無いんでしょうかね?

悟りの奨励が人類に不利益をもたらすことは無いんでしょうか?

 

また、慈悲に対しても、本当に理想とすべき行為なのだろうか、という疑問が湧いてきました。

我が子が苦しむ姿を見て、出来ることなら自分が代わってやりたいと考えたご両親は多いことでしょう。

悟りを開いた人は病苦に耐えられる精神構造を備えている訳ですから、なおのこと「どうして自分がこの病気に掛かってやれなかったのか」という考えが頭をよぎってもおかしくはないように思えます。

ただし、それは、悟りを崩してしまった姿ではあるでしょう。

「相手と代わりたい」と考えることは、「今この瞬間」に対する拒絶でもあり、「欲」や「怒り」に分類される煩悩でもあるだろうからです。

上記は、もはや、純粋な「慈悲」とは呼べない心境なのかも知れません。

けれど、そういった心境に至ってしまうことや、悟りから離れてしまうことに、慈悲こそがその端緒とならないのかということが、僕の気になるところです。

慈悲を「他者への哀れみ」とするならば、それを起こした瞬間、自分自身の「今」がおろそかになって、迷い、苦しんでいくことにはならないのでしょうか?

 

まとめますと、僕がこの『維摩経』を通して知りたかったことは、以下の四種類。

  1. 仏道への疑問 : 「慈悲」という限定された行為と、「悟り」という解放された状態の両方を保持しようとすると、葛藤によって苦しむのは当然ではないか? その苦しみを避ける方法など存在するのか? 仏道は、その苦しみを強制するものなのか?
  2. 悟りへの疑問 : 本当にいつだって理想的なものなのか?
  3. 慈悲への疑問 : 本当にいつだって理想的なものなのか? 煩悩との違いはどこに在るのか?
  4. 維摩さまへの疑問 : 慈悲で病を起こした者が、本当に仏道を極めていたと言えるのか?

そういう訳で、ある日曜日、僕は大変高揚した気分で電子書籍を読み進めていったのですが……最後のページは、やってきてしまいました。何かを得られたという感覚が、全く得られないままに!

僕は、先入観に邪魔されて、重要な文章の意味を全く読み解けていなかったのでした。