とある針灸師の実情

針灸師・稻垣順也が、終わりのない自己紹介を続けていくブログです。

3月12日の出来事・後編

 

中編の続き】

西洋医学では、喘息を起こす人は、分泌物やむくみのせいで気道(空気の通り道)が狭まっていると言う。

そのため、発作時には、気道を広げる効果を持った薬が使われる。

人が自力で気道を広げる場合は、自律神経の中では「交感神経」の働きが必要となる。

もし「副交感神経」の働きが強まると、気道は……反対に、狭まってしまう。

鍼灸の論文の中には、特定のツボへの刺激で「副交感神経」の働きが高まったと思われるものが有る。

大阪医療技術学園専門学校の播貞華先生が行った実験においては、眉頭に在るツボへの鍼で、心拍数の減少傾向がみられた。鍼で、副交感神経の活動を促す反応が引き起こされたのである。

他に有名な論文としては、向こうずねに在るツボへの鍼で副交感神経の活動が高まったと言うものも有る。

これから僕が「ロシアの魔女」(通称)にする針が、それらと同様に働いたとしたら……まさしく致命的である。

ここでの「波乱」は絶対に許されなかった。

 

僕は、昼食で飲み込んだ稲荷寿司の納まりの悪さに苦しみながら、往診先でどういった施術をすべきか、考えていた。

自分の今までのやり方を貫くべきか、ここはいったん撤回すべきか。

患者さんとしては、自分の針灸師生命を賭けても惜しくない相手だ。

「僕に命を預けてもらって良いですか」と尋ねれば、きっと容易にうなずいてくれるであろう程の信頼を、日頃から寄せて下さっている。

……。

……。

……多分(笑)。

けれど、たとえ「頭」がうなずいてくれたとしても、「心」と「体」はどこまでもリスクを怖がるものだ。

勝率は、最大限に上げねばならない。

今回は、自分の信念は捨て、歴史的に喘息に使われてきたツボを優先するべきか。

しかし、もしその方法で喘息の悪化を招いた時、僕に何が言えるだろう。

「喘息に昔はこういうことがされていましたので」という釈明に、責任感は有るだろうか。

やはり、針をする以上は、「業」を覚悟した上で、自分の信じるものをするしか道は無い。

信じる針が無いのなら、手は出さず、苦しみをただ共に味わうのが道義というものだろう。

「脈をみて決めよう」と、僕は思った。

「今日の脈に五日前と似た印象しか持てなければ、『ロシアの魔女』の状態は僕の実力では対処不能なものだと判断しよう。だが、今日の脈に普段との決定的な違いを見付けられたなら、それに応じた対処は出来る。五日前と今回とは本質的に違った状態であると認識し、新しい勝負に臨もう」と。

大阪医専の校舎を案内していただくまでに、何とか自分なりに迷いを払拭することが出来た。

 

江見先生が主催した「望診」についてのセミナーは、予想通り、僕にとっても有意義なものだった。

第三者気味の立場でセミナーを見ていて、何となく、僕は自分が授業や教育に対して持っている固定観念からもっと自由になれそうな気がした。

その後の尾河由清先生による「杉山真伝流」のセミナーを当初は見学させていただく予定だったが、今回は退出し、僕は京都へ向かった。

途中、往診用具を取りに自宅へ戻った。

今後は、なるべく往診用具を持ち歩くべきかも知れない。

 

「待ちわびたぞ」というセリフを往診に来た医療者に言える患者も、このご時世、なかなか居ないだろう。

しかし、「魔女」ならば言う。実に魔女的だ。呼吸困難……なのにね……。

どうやら声は出るらしかった。

僕は、脈をみた。

指を置いてすぐ、「これなら僕は役に立てそうだ」と安心した。

彼女の脈は、五日前とは違い、大いに浅い位置で打っていた。

脈というものは、僕が正しく解釈できるかどうかはともかくとして、常に、微妙ながらも、その人の折々の状態を表現してくれている。

僕に、するべき対処をいつも教えようとしてくれているのだ。

僕は「君という味方が居てくれるのに、自分を揺るがし、勝手に不安になってごめんよ」と、脈に謝りたい気分だった。

「やっぱり俺は、脈診と生き、脈診と死ぬ!」と、改めて「心中」を誓った。

実はもう、何度目になるか分からない誓いなのだが……(苦笑)。

けれど、こうして何度も誓いを立て直す度に、僕の脈診は進歩してきた。

今まで脈の深浅については三層に区別していたのだが、その瞬間から、五層に区分されているようにしか感じられなくなってきたのだ。

『難経』という本の十八編目には、「浮・中・沈」と、三層に区切った脈診の記載が有る。他方、五編目では、「三菽之重・六菽之重・九菽之重・十二菽之重・至骨」と、五層に区切った診察法も紹介されている。

「これが五編目で言っていたことか」と、初めて実感をした。

知識としては既に保持していたのに、なぜ今まで実践を楽しもうとしなかったのか、こういう時は自分でも非常に不思議だ。「窮すれば通ず」というやつなのか。

もしかしたら、講師をしていることが「あだ」になっていたかも知れない。人に教える立場でもある以上、人がまねをしやすい水準に自分をとどめる必要が有ると思い込んでいたのか。

ともかく、患者さんからの信頼に、僕はまた一つ成長させられた。

中編で紹介した僕の「正解ゾーン」は、僕にとっての「触ってはいけないゾーン」と隣接している。

脈の深さを五つの区分で認識できるようになったことで、今まで1 / 13の精度で区別していたゾーンを1 / 21の精度で区別でき、ゾーンの際を以前よりも攻められるようになった。

この精度へのこだわりが施術後の安定した快方につながることを願って、魔女には左足と右腕に針を受けてもらい、その日の往診を終えた。

 

翌朝、「ビックリする程快復しました」との報告を受け、僕の3月12日は無事に落着した。

最後に、魔女に一つ質問をしてこのシリーズを終えたい。

おみやげにもらったあのおいしいデニッシュ風の食パンの耳、いつ食べたん!?

妻は、「結構バター利いてる」と言っていましたぜ……。

稻垣夫婦の安心のためにも、満月の付近ではくれぐれもご自愛を。